スペイン バルセロナ・モンセラートとエンビニ村・フランス ルルドへの旅 2007年10月4日(木)〜10月11日(木) 西山昌子(記) |
参加者の皆様とマルセリーノ神父様の地元アルテスの新聞に掲載された写真ですj。 |
10月4日 成田発 10:30. エールフランス航空で出発。朝5:30頃には花小金井駅を出発。 成田 8:00集合。集合場所には、福島の参加者の御夫妻がすでにおられた。夜行バスで夜中に福島を発ったらしい。しばらくすると、皆さんが集まってきた。 マルセリーノ神父様にご挨拶。宜しくお願いします。成田から8名、関西から8名、全員で16名。 パリ・シャルルドゴールに現地時間16:10着。乗り換えのバルセロナ行きF30はバスに乗り一番遠く空港の端まで行く。店は殆んど無く、飲み物の店はある。 20:40バルセロナ到着。関空からも1時間遅れで、ほぼ同じ時間に到着。皆さんと顔を合わせた。ここで、スペイン在住、スタッフの平野さんが待っていた。荷物をガラガラ引っ張りながら、貸し切りバスのところまで移動。到着時は、小雨だったが、次第に止んできた。ホテルまで30分以上走る。暗いのでどこを走っているのか分からない。ホテル10:00過ぎに到着。田中一江さんと同室。お風呂に入り、11:30に寝る。 10月5日 7:30 朝食集合。8:30出発の予定ではあったが、結局9:30頃出発。サクラダファミリアとモンジュイックの丘へGO。モンジュイックとは、モン→山、ジュイック→ユダヤ人 という意味で、昔、ユダヤ人が住んでいたそうだ。 早速バスに乗り込んで外を眺める。バルセロナの建物や路面電車を眺めていると、サグラダファミリア(聖家族教会)が見えてきた。かの有名なガウディ作である。1882年着工。まだ教会は完成していない。早くて25年後とか?テレビでよく見るが、今実物を見ている。 教会の複雑な形に驚き、スペイン人というのは根気強い国民だなあ、とつくづく思う。ガウディって、一体何者なの? 「サクラダファミリア聖堂の建設はゆっくりしている。なぜならこの作品のご主人(神)が急がないからだ」とはガウディのコメントである。 内部は完成されていないので、まだミサも出来ない。4Fから下りる時は、カタツムリのような狭い階段をぐるぐる回って下りる。一階には、お土産屋さんもある。カード等買っている間に、集合時間に5分程遅れてしまった。レジのおばさんが、仲間とおしゃべりをして、なかなか、レジを打ってくれない。日本とは感覚が大分違う。 外に出ると、グループは集合場所にはいない。仕方ないから、中央に立っていたら、松村さんが迎えに来てくれた。出口付近に移動していて、人が多すぎて見えなかった。ヤレヤレ、第一日目から迷惑をかけてしまった。すみませんでした。 再びバスに乗って、バルセロナの市内見物。奇抜なガウディの建物が見えた。道路のコンクリートまでガウディ作の模様が入って美しい。又、ローマ時代の遺跡の上に建物が建っているものもある。港の近くでは、コロンブスの像の塔を車窓から眺めながら、モンジュイックの丘へと向った。 あいにく、海の景色の美しい丘は工事中のため、入ることが出来なかったが、丘から少し下って来ると、ここでは、美しい海とバルセロナの市街が見えた。10月の太陽の眩しいほどの光と、ちょっぴり涼しいさわやかな空気を胸一杯吸い込んで、東京では味わうことの出来ないすがすがしさを心にしみ込ませて、美しいモンジュイックの丘を後にした。 再びバスに乗り、バルセロナオリンピックの時の聖火台を眺めながら、一路次の目的地モンセラートへと向った。 *モンセラート=のこぎり山。 険しい独特の形をしたモンセラートの山。随分高い所までバスは登っただろうか、道幅が広いので、バスもゆっくりと曲がりくねりながら登っていく、山の上の広場に出た。 モンセラートのホテルへ。入り口には人気がない。荷物を車から出し、各自の部屋へ荷物を運ぶ。エレベーターもゆっくりしたものだ。エレベーターから下りると通路は外にあった。巨大な岩がホテルにへばりついている。鍵を廻して部屋に入り、ひとまず荷物を部屋に入れた。レストランまで歩き昼食。お腹も空いていたので、とても美味しかった。 その後、自由行動。希望者は黒いマリア様が見つかった洞窟まで歩くことになった。山を下ってしばらく行くと、ロザリオの秘蹟を表すモニュメントが所々にある。大分山を下って行っただろうか、小さな建物が見えてきた。その内部に、黒いマリアが見つかった洞窟があった。今はレプリカが安置されていて、祈りが出来るようになっていた。 静かに祈った後で、再び元の道を戻る。途中ケーブルカーを見つけた。私もケーブルカーの所から動かない。 「・・・にほとけ」とはこのことかとばかり、結局全員が乗って元の広場へ到着。(その後、2日程、足の筋肉が階段を下りるたびに痛かった。)広場のお店で、有名な少年合唱団のCDを買った。 PM7:30 夕方からミサがある。モンセラートの教会は重厚で立派な教会である。大聖堂の裏側に、小聖堂があり、聖堂の奥に、黒いマリア像が安置されていた。黒いマリア像の美しいお顔を拝見し、手に触りながら、小聖堂へと向った。 黒いマリア様の後ろ姿が、 その後、8:30頃レストランで夕食。カツフライが食べ切れなかった。小雨の中、近くのホテルへ9:00頃帰ってきた。シャワーでシャンプーをして、PM11:00就寝。 10月6日 7:45分朝食。その後、自由行動。昨夜書いたはがきを郵便ポストに入れる。これから希望者はロープウエーで山の上まで登ることになった。 再び、ロープウエイで下山した。 町のレストランでの昼食後、聖イグナチオ・デ・ロヨラが霊操を書いたマンレッサの教会へと出発した。現地在住のスタッフが、「ここから見る裏側のモンセラートの形は美しいですよ」といわれていたが、遠くに見えるモンセラートは綺麗だった。 マンレッサの教会は立派である。教会の奥へ進むと、小さな岩の間にイグナチオ・デ・ロヨラの小聖堂があった。日本に来たフランシスコ・ザビエル達と一緒にイエズス会を作られたうちの一人である。聖堂の横の壁面に、高山右近のちょんまげ、着物姿のレリーフがあった。何故、そこに描き留められているのか、それはあの偉大な信仰のゆえである。 いよいよ一路エンビニ村へ、ピレネーの山奥へと、バスは出発した。車はどんどん田舎町から山道へ。人気のない道を走る。ピレネーの静かな山村。 あたりは暗くなってきた。 10月7日 朝食後、自由行動。朝の続きのスケッチをしていると、鐘の音が静かに響き渡り、ミサの時間である。オルガン伴奏で、ソプラノ独唱を聞くことが出来た。ミサが終わり裏庭に廻ると、洋ナシが実り、家の囲りにはたわわに実ったブドウの木がテラスを囲み、カタルニア地方の強い光の中で輝いていた。とても美しかった。 山道を通り抜け、隣の村の古道具の博物館へと向った。ところが日曜日なので、午前中で係りの人が帰ってしまったとかで入れない。その村には、廃墟と化した教会が崩れそうに建っていた。ならば、蝶の展示館へ、プハルトという村まで車で行き、希望者は見学することになった。 丁寧な説明で、外に出た時には辺りは薄暗くなっていた。車で、エンビニ村に帰ってきた。夕食は、ジョアン神父様達の作られた食事である。 10月8日 途中、真っ赤なりんごがたわわに実っている。坂の上にある石造りの建物には人気が無い。7人の村人しか住んでいない、とても静かな村なのだ。1軒の村の家の中を案内していただいた。昔のままの形で残っている。避暑には来るらしい。昔のままの納屋があり、馬の水のみ場があったりする。人家もとぎれ、石ころだらけの岩山をひたすら黙々と登って行った。 紅葉が始まっている。汗びっしょりで、杖をついて急な坂道を登ると、たどり着いたところは、廃墟と化した石積みの土台だけが残っている建物があった。松村さんはここで何かを作ると、理想像を描いていた。私達は最初の第一歩だとばかりに、皆で土台の上にそれぞれ石積みを始めた。何かが完成したら素晴らしいことだと思う。 記念写真を撮った後に、杖をつきながら山道を下った。疲れ果てて教会へたどり着いた。教会の裏庭の石段を少し下りて行ったところに、おいしそうな洋梨が緑の地面の上にポロポロ落ちているではないか。一つを拾ってズボンでこすって、かじってみた。甘くてとても美味しい。山から下りてきたので、また格別に美味しい。もう一つ拾ってあっという間に2個とも食べてしまった。 その後、エンビニ村の素晴らしい心洗われる景色をしばし眺めていた。ジョアン神父様がお一人で、黙々と台所に立っておられる。昼食の時間が近づいてきた。朝食はあまり食べないようにと言っていた意味が分かった。昼食は美味しいソーセージの入った肉料理と新鮮な野菜、トマトと共に又格別に美味しい。この2日間のこんなに美味しくて、ジョアン神父様の心のこもった味に今まで出会ったことはない。忘れられない味になった。手作りジャムの美味しかったこと、あっという間になくなってしまった。 昼食後は、コロンビアの動植物、自然のビデオを見て過し、午後は、いよいよエンビニ村を出発。ジョアン神父様とお別れを惜しんで、再びバスにてピレネー山脈の峠を越えて、目的地ルルドへと向った。 ピレネーの山越えに、私はワクワクしていた。バスの中からではあるが、ピレネーの山々を眺めることが出来る。ピレネー山脈へ、ゆっくりバスは登って行く。途中、トイレ休憩、 小さな町の中でバスから降りた。小雨がぱらついていたが、傘をさすほどでもない。町中では、大規模なバザールが開かれていた。 岩山の谷間をバスはゆっくりと登っていく。始まったばかりの美しい紅葉が所々見える。冬は雪が沢山積もるのだろう。あちこちに積雪を計るポールが立っていた。 濃紺の急な勾配のある屋根に、白い壁の家々の集落があちこちに見えた。 松村さんが、国境を境にして、スペインとフランスとの建物ががらりと異なるといっていたが、確かに違う。屋根も壁も、明るい感じに変わってきた。家の作り方も違う。 国境を越えてしばらく走ると、家々が多くなってきた。高速道路をバスは走る。道路の標識に、ルルドのマークが所々出てきた。 左に見える山のふもとにルルドの聖地がある。もう近くまで来ていた。だんだんと家々が密集してきた。ルルドの町である。辺りは薄暗くなっていた。 バスから各々自分の荷物を取り出し、石畳の上をガラガラと音を立てながら、宿泊所である修道院へと向った。 行列に参加して歩いた。 10月9日 前方、奥の方に神聖な朝の光に照らされた大聖堂が見えてきた。辺りは静寂に包まれ、小鳥の鳴き声が聞こえている。目の前の十字架の塔を見やりながら聖域へと進んでいった。 水浴場には2人のシスターがいる。マントを脱ぎ白い布で素早く身を包み替え、水の入った細長い長方形の中、手前に段差があり、そこから前方に進んでいくと、マリア様の像があり、祈るように促す。静かに足を伸ばして、水温12℃の中に(深さは50mはあるかな?)体を沈めると、2〜3秒ぐらいの速さで2人のシスターが持ち上げてくれる。その手際のよさ。再び手品のような速さで白い布からマントに着替え、水浴場から出た。 皆んなの待っている場所に全員集合。グロット(洞窟のマリア様)→水栓場―を通り―聖域を出て、昔の司祭館―ベルナデッタ生家(水車小屋)―カシュー―ルルド小教区教会―を早歩きで、ひとまずぐるりと廻り、ホテルに戻った。昼食後は自由時間である。 グループで再び出掛けることにした。まず、ロザリオ大聖堂、地下聖堂、上部聖堂。3階建てになっているといわれたところを見て廻り祈った。 外に出て、マッサビエル洞窟の列に並んで、洞窟の岩に手をやると、ひんやりとした肌触り、マリア様の足元の岩からはジワーッと湧き水がしみ出ていた。 次は、聖ピオ10世地下大聖堂に入った。入口がなかなか見つからず、インフォメーションで聞くと直ぐに分かった。地下聖堂はものすごく広い。2,3万人を収容できる大聖堂である。ノアの箱舟の形をしている。核シェルターにも使われるらしい。中に入ると、沢山の椅子が並べられ、パイプオルガンの音が響きわたって、大勢の人達が集まっていた。 ぐるりとひとまわりをして、聖域から出た。次は、出口近くの御土産やさんを覗き、ベルナデッタの御像を買った。宿泊所である修道院の近くまで来た所にある、サクレクール教会。ここは、ベルナデッタが洗礼を受けた教会である。 10月10日 東京では見ることの出来ない沢山の星が、綺麗に輝いていた。北斗七星と金星が見えた。しばらく星空を眺めていると、辺りが少しずつ明るくなってきた。高速道路を走り、トウールーズ市街に出た。約2時間20分で近代的で立派なトウールーズ・ブラニャック空港に到着した。 成田行き飛行機への乗換え時間が少なかったので、モラレス神父様達と空港の中を走る走る。ようやく、成田行きの表示が見えてきた。日本人の顔もチラホラ見えてきた。 気流の関係で、PM1:15発の便も随分遅れた。両方が遅れたために、うまく乗れた訳である。帰りは気流の関係で行きよりは時間は短いはずである。飛行機の中では眠れないので映画を2本見てしまった。 今までの旅とは違って、巡礼の旅は、私にとって初めての経験であった。 ありがとうございました 完
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【参考資料】 バルセロナ 人口約1,503,400人 スペインには地方ごとに国があるといわれる。バルセロナを州都とするカタルーニャ地方もまた、独自の歴史と文化を育んできた。19世紀半ば、カタルーニャ、ルネッサンスと呼ばれるこの時代、モデルニスモ(近代主義)と呼ばれる革新的な芸術運動が起こりガウディをはじめとする建築家達の作品が町並みに彩を添えた。 1992年のオリンピック開催を機に、一層スペインで最も活気のある都市として躍進を続けている。 コロンブスの塔 アメリカ大陸発見を記念して、1888年バルセロナ万博の際に建てられた。 モンジュイックの丘 173m ガウディ 1926年 市電にはねられて死亡。 モンセラート バルセロナから北西へ53km ラ・モレネータ 黒いマリア像はナポレオンが侵略した時も土地の人の手によって隠され守られた。 エスコラニア 少年合唱団。13世紀から現在に引き継がれている。 ルルド 人口15.000人 ガブ川 奇跡のメダイ 周りの星がちりばめられている。聖カタリナにまつわる話もある。 ローソク行列 毎晩9:00〜 サンチャゴ巡礼 帆立貝が印 サンチャゴ・・・聖ヤコブ フランスからの道 |
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