ルルド巡礼記(その1)不思議なメダイ
今年(07年)6月30日パリに到着。日本は猛暑だというのにここフランスは肌寒かった。今回のルルド訪問のきっかけは、当社のGM(ジェネラル・マネージャー)のK女史が勤続十年の記念にルルドに行きたいとのたっての願いで、ベルギーへの出張に掛けてルルド巡礼の機会を作った。私自身もかねてから一度は巡礼したい所でもありルルドの聖母出現とルルドの奇跡は何回も聞いていたからである。
ルルドの事は10年ほど前に「ルルドの巡礼者達」というユイスマンが書いた翻訳書を読んだ記憶があるだけで、その著書にはルルドでの奇跡的な病気治癒の話とそれにまつわる巡礼者の心理描写が書かれていた。しかし、聖母御出現については余り詳しくは知らない。事前に知識を得ておかねばならないと思いついたのが五十年程前にアカデミー賞を受賞した「聖処女」という米国の映画だ。「聖処女」という題名に違和感があったが、この映画は聖母出現に出会ったベルナデッタの生涯の話だと聞いていた。アカデミー賞を取った名画であるから復刻してあるであろうという期待でビデオ店を探したら格安のDVDで直ぐ見つかった。早速、今回同行する息子とこのDVDを見た。100年前の聖母出現と教会当局の困惑やベルナデッタの犠牲的生涯を知ると同時に映像で得た知識が今回のルルド巡礼に大変役に立った。ただ、フランスでの出来事なのにハリウッド映画だから会話が英語だ。何かミスマッチな感じを受けたが映画の内容は大変真面目で良く表現できていた。
7月1日は日曜日、パリの朝は早い小雨が降っていたが下町の風情に良くマッチしていてすがすがしかった。今日は、Rue de Bacにある不思議なメダイ教会に行くと決めていた同行の二人を朝早く起こして地下鉄に乗った。この「不思議なメダイ教会」は、聖母のメダイを作り、そのメダイを掛けるように聖母から託された「聖カタリナ・ラブレ」が眠っている教会だ。10時のミサに授かる事が出来た。目の前の祭壇には「聖カタリナ・ラブレ」の遺体がガラスケースの中に少し小さめだが美しく眠っている。ミサ後、沢山の巡礼者が近寄って祈りをささげ、花束を奉じていた。
帰りがけに売店で正真正銘の「不思議なメダイ」を20個も買い求めた。友人から頼まれたからだ。ところで、今の日本の若者にこのメダイが流行っているらしい。有名なアイドルや「キムタク」も身に付けていると聞く。ためしに、インターネットで検索したら楽天でも売っているし、オークションにも出ている。それに偽メダイも横行している。本物は「フランスの不思議なメダイ教会で求めたもの」だけとも書かれていた。それを裏付けたのがこの教会売店にいた日本人シスターの話だ。「何故か最近日本の女性観光客が大挙してメダイを買って帰るのよ」と言っていた。私たちも、巡礼者たちに混じってこのメダイを買ったのだが、彼女たちのメダイと違うのはその後だ。直ぐその場に居た神父さんを見つけ、何処の国の神父さんか解らないが手話で十字を切るしぐさをして早速このメダイを聖別していただいた。
「不思議なメダイの教会を出ると」直ぐ近くに有名な「パリ外国宣教会(MEP)本部」がある。「Mission Etrager de Paris」日本ではパリミッションと呼ばれているアジア専門に布教する宣教会だ。明治維新後、隠れキリシタンを浦上で発見したプチジャン神父や歩く宣教師と言われ関東各地に教会を建てた神父たちはこのパリミッションの宣教師だ。我国のカトリック教会の多くがこのMEPの宣教師達によって建てられている事を感謝しなければならない。MEPの本部の扉が開かれ大勢の若者が聖堂から溢れていたのでちょっと覗いてみた。丁度、ミサの終りに司祭が派遣の祈りを捧げたとき、突然大きなファンファーレが鳴った。すると数十人の若者が整列して聖堂から出てきた。周りから大きな拍手が起きる。後で、解ったのだが、この若者達は、東南アジア各地に派遣される学生達だ。MEPでは国内の大学と連携して若者を東南アジアにボランティアとして2?3年派遣し、現代式ミッションを行なっているとの事だ。その為の派遣ミサ聖祭だった。曇っていた空は晴れ渡り初夏のすがすがしさがこの出発式をより華やかにした。MEPの受付で日本から来た事を知らせ、日本で宣教している神父さんの所在を聞いたところ、札幌教区のペラール神父が帰郷中とのこと、早速面会をお願いしたが受付のベトナム人婦人はこのフランス語の解らない通りすがりの日本人の願いにそっけない応対だった。それにもめげず1時間も粘った挙句、やっとペラール神父が鉄格子の向こうからやってきた。やっと日本語が満足に伝わる。彼は、親切に鉄格子の奥すなわちMEP本部の中に招き入れて呉れた。MEPの本部は通りから見るとパリの下町の一角にあるちょっとした場所何しろ、MEPの隣はNESPRESSO(コヒーメーカー)のお店や本屋さん等の商店なのだが鉄格子の向こうは立派な石造りの建物だ。その奥に広く手入れの行き届いた大庭園が出現した。この庭園のあちこちで車座になり、先程のミサに出席していた若者や、その家族、友人達と激励のパーティーが開かれていた。ペラール神父はどうしても案内したいところがあるといって庭園の隅にある祠に案内された。そこには、幼子イエスを抱いた聖母像があった。彼の説明によるとMEPの神学校を卒業し神父に叙階されいよいよ故国を離れ宣教地に行く時、この祠の前から「SALVE REGINA」の聖歌と祈りを捧げながら旅たつのだという。百年以上この伝統は続いている。故国フランスを離れる若い宣教師達は未開なそして神秘的なアジアの各地に殉教を覚悟で赴いたのである。
現在の修道院でもこの「SALVE REGINA」が最近は歌われているか否かは解らないが、以前、瀬田の修道院でも土曜の夕べの祈りに修道士や神学生がラテン語で歌っていたのを記憶している。この素晴らしい祈りの一部「嘆きながらも、泣きながらも、涙の谷にあなたを慕う。我等のためにとりなす方、哀れみの目を我等に注ぎ、尊いあなたの子イエズスを旅路に示して下さい」と、まさにこれから未知の布教地に向かう若い宣教師が聖母に託したこの切実な祈りが胸に伝わってくるようだ。また、MEP本部には東南アジアで殉教した宣教師達の遺品や遺骨が保管展示してあった。神学生たちはこの遺品や拷問の道具を見せられ、宣教に赴く意思を確認されたという。すざましき宣教精神に圧倒されてしまった。至近ではカンボジアに赴任したMEP宣教師達はポルポトの大虐殺により全員殺されてしまった。その悲痛な出来事を話すペラール神父も心なしか寂しげであった。私たちはこのパリの下町で信仰の深さと厳しさそして素晴らしさを味わった貴重な一日であった。いよいよ、明日はルルドに向かう予定だ。
ルルド巡礼記(その2)
アジアでのカトリック弾圧
キリシタン殉教者はフランシスコ会士が多かった。先月号「瀬田の丘」でも小高神父が書かれていたのでMEP「パリミッション」の発祥も記しておこう。我国のキリシタン禁教時代やアジアでの布教各地でフランシスコ会とイエズス会との覇権争いがあったという。当時ヨーロッパ各国のアジア進出の覇権争いに教会も巻き込まれたのである。特にフランシスコ会士達は貧しい庶民に向けた布教で多くの殉教者を出したという。そこで、当時の教皇庁は、アジア布教地での修道会同士の軋轢と信者への弾圧を避けるため特定の修道会に属さない純粋な「宣教団体」の設立を時のフランス国王に依頼したのが「パリ外国宣教会」の発足であるとMEPで説明された。
いよいよルルドに出発
昨日のMEP訪問の興奮も冷めやらぬうちに朝を迎えた。パリの下町で早起きはパン屋さんだ。宿泊ホテルの一階はパン屋さんで朝早くからパンを焼く香ばしい匂いが部屋の中まで漂ってくる。朝、九時に現地のガイドがホテルに訪ねて来た。四十歳を過ぎたくらいの背の高い好青年だ。彼の名前は「セシル椎津」。青い目をした「フランス・日本人」だ。流暢な日本語とフランス語で我々と三日間お付き合いをして頂く事になった。
実は、ルルド巡礼を決めた時は、半分の日程が商用であるので一般の巡礼ツアーには応募しないで独自の計画を立てた。インターネットで「ルルド」を検索した結果、コミュニティーワールドという旅行代理店を見つけた。早速メールで問合せをし、全ての訪欧計画を知らせて商用も含めて独自に行程を作って頂いた。お互いに全く見も知らずのやりとりだからお互いに半信半疑だ。何回かのメールやりとりから意を決して、ルルド巡礼の目的とカトリック信者である旨を告げた。折り返しの返事で担当して下さった旅行社の松村さんも実は信者さんだったのでほっと安心してお任せをした。さらに、わがままにもルルドでの宿泊先を修道院でと無理なお願いもしてみた。担当の松村さんとは一度もお会いした事がないし、旅行社は大阪である。ついでに、パリからルルドまでのガイドさんを紹介してもらい修道院の宿泊もOKを取ってもらった。松村さんが紹介して下さった椎津さんは「暁星国際」の卒業生でバカロレア(仏国大学入学資格試験)を取り渡仏して大学の情報工学を勉強した逸才である。さらに彼は仏国陸軍に入隊し市民権を取った変り種「日本人・フランス人」だ。もちろんカトリック信者だが、奥さんはアラブ人でイスラム教徒である。しかし、宗教上はお互いの立場を尊重しているし家庭を愛しているので何の問題もないと言っていたのが印象的だ。早速、ホテルより歩いてモンパルナス駅に向かいTGV(新幹線)でルルドに向かう。やはり車中の話はもっぱら日本の今事情である。彼は「日本人」だからしきりに日本の情報を聞きたがる。特に「年金流用不払い問題」については大変驚いたようで「フランスだったら暴動が起きます」と言い、おとなしい日本人がふがいないとも言った。
列車はワインの有名なボルドーを過ぎ平野から山間に移って行った。林を通り過ぎると突然開けた谷間の町それに高い鐘楼のある教会が現れまもなく列車はルルド駅に到着した。もっと素朴な駅を想像していたが、軽井沢駅のような感じのルルド駅前だ。巡礼より観光に来たような気がしてしまった。駅前からタクシーで五分のところにある修道院に到着。シスターが出迎えて下さる。椎津さんは良くシスターを知っているようで手早く我々を紹介し各部屋に案内された。修道院と言っても、修道院経営の「黙想の家」である。日本の修道会の「黙想の家」とシステムが似ているので何の不安も無かった。部屋はベッドが一つ、小さな机、シャワールームと洗面台、それだけである。ベランダに出ると、緑がまぶしい裏庭とピレネーの山裾が見える。仕事柄、いつもパソコンをかばんに入れているのだが、インターネットにつなげないテレビもない、電話も無い。ついに外界から遮断されて不安になってしまった。
マッサビルのグロット(洞窟)へ
部屋に落ち着いてまもなくルルド洞窟見学に行く。我々三人は椎津さんの案内で修道院の裏庭から大きな川沿いにグロット(洞窟)に向かう。とうとうと水が流れるこの川はベルナデッタが聖母と出会う風景に欠かせない有名な「ガーブ川」だ。この川沿いに進むと向こうに大きな聖堂のゴチック鐘楼が見える。グロットの真上に建つのが聖母のお告げで建てられたロザリオ聖堂と無原罪のマリア聖堂である。しばらく歩くと、いつも写真で見慣れたグロットと岩場の聖母立像が見えてくる。グロットの前はおびただしい数のローソクと多くの人々が祈っている姿が見えて来た。そのグロットの脇には、水道の蛇口が並び有名な「ルルドの水」だ、だれでも汲めるようになっていて、ペットボトルに詰めたり、飲んだり顔を洗ったりしている。駆け足で通り過ぎてこの「聖域」を抜け出すと、巡礼地というよりも観光地で沢山の土産物屋さんが並んでいる。その一角を通り抜けしてベルナデッタの生家や貧しい生活をしていた水車小屋を見て回る。ベルナデッタの生涯と聖母出現の物語は数多く語られているのでここでは書かないでおくが、大変印象に残った場所があったので書いておこう。
前号でルルド巡礼の前に「聖処女」という映画を見て予備知識を得たと書いたが、その映画の中でルルド小教区の司祭がベルナデッタと聖母との会話の内容を詰問する場面がある。司祭はベルナデッタにこう言った。「そうだ、ベルナデッタ、若しあなたが会った婦人が聖母ならばバラを咲かせて欲しいと頼んでみなさい。若し聖母がバラの花を咲かせたなら信じよう。」というくだりがある。バラ好きな司祭はその庭に冬の枯れたバラの木を指して言う場面があった。それと同じ景色の司祭館跡がありベルナデッタがくぐった裏庭の門跡もあった。そして、修道院での教理の勉強も成績が悪く無学のベルナデッタがその出会った貴婦人に「あなたはどなたですか?」と問いかける。貴婦人から「私は無原罪のおん宿りです。」と告げられて、その事を司祭に知らせた。とたん司祭はこの無学な一二才の少女に「無原罪?」「おん宿り?」「いったいこの意味はベルナデッタが理解るのか?」と自問自答する。当然、これらの単語も知らない意味も解らない少女からこの言葉「無原罪のおん宿り」の言葉をを聴いた司祭は瞬時に「この貴婦人は聖母だ。」と信じたのだ。それがこの場所だ。ベルナデッタはマッサビルのグロットの前で合計18回も聖母と会話をしたのだ。
一通りベルナデッタと聖母との出会いまでの道筋を巡り終わって修道院に戻った。各国の巡礼者の方々と夕食を済ませ、再びロザリオ聖堂前の大広場のローソク行列に向かった。ローソク行列は数え切れない車椅子の人々、担架寝台の人々、「あめのきさき」の歌がこだまのようにうねって聞こえる。歌詞は何十カ国語だ。日本語は無かったが我々は日本語で繰り返し唄った。大きな感動の内に宿舎に戻った。ガイドの椎津さんから「明朝は沐浴です。朝早くに行きましょう」との伝言だ。
「沐浴?しまった水着を持って来なかった。」
「椎津さん、水着を持って来ていません。タオルも必要ですか?」
彼は笑って「必要ありません」といってにっこり笑って部屋に消えた。
ルルド巡礼記(その3)
ルルドに到着して2日目の朝を迎えた。地球温暖化の影響か、今年の夏は暑い。
日本を発つときにイタリアでは猛暑で人が亡くなったといニュースを聞いたので
フランスも猛暑であろうと想像し、半そでTシャツと夏姿でカジュアルな服装で出発した。
ここルルドはピレネー山脈の麓でパリに比べ標高も高い。猛暑だと言っても朝夕は肌寒かった。一昨日パリミッション会を訪問したときに総長から記念に頂いた長袖のシャツが役に立った。(このシャツのデザインが良くてお気に入り。さすがファションの国フランスだ。)
ルルドの泉の沐浴は大変混むので早く行って順番を確保しなければなりませんと昨夜言われたので修道院の朝食を早めに食べ、我々三人は修道院の裏庭からグロットに通じるカーブ河沿いの道を急いだ。
沐浴の順番
いよいよ沐浴場だ。早朝7時だというのに順番を待つ椅子の約8割がうめられていた。
沐浴場は簡素なコンクリートの建物にシャワー室のような扉が4箇所あり、まったく飾り気の無い建物だ。その建物の前にずらっと200人位座れる長椅子があり、我々が座って30分もたたないうちに満席になった。午前の沐浴は札止めだ。大勢の沐浴者が殺到しているので我々の番までゆうに3時間は待たねばならない。沐浴の順番は担架で運ばれる重症と思われる巡礼者、その次は車椅子の人、その次が健常者、特にイタリアからは巡礼列車を仕立てて多くの障害者と巡礼者が運ばれて来ている。沐浴を待っている間、底抜けに明るいイタリア人の団体巡礼者は大きな声で聖歌を合唱し、ロザリオの祈りを唱えながら沐浴を待っている。
特に女性群は賑やかで明るい。私はといえば、どの様に祈ったらいいのか解らないままロザリオをくっていたが落ち着かないので途中で止めてしまった。
我が息子はキョロキョロして沐浴している人々を観察しているようだ。
待合場所の片隅で眼光鋭い一人の若い苦行僧といった風情の修道士が子供たちに何かを話している。
病気を治したい
実は、私には難病認定のOPLL(後縦靭帯骨化症)という脊椎症の持病がある。予後はよくないと医者から宣言されている。今は、何とかだましだまし病気と付き合っている。
今回のルルド巡礼目的の一つには若しかしたらこの持病が治るかも?という期待感もあった。そこで、沐浴待ちの祈りも「マリア様、若し御心に叶うならば祈りを聞き入れて下さい」とい祈りを遠慮しながらお願いしていたのだが、周りの巡礼者の熱意を見ているうちにこんな
かっこつけの祈りは止めて率直に「マリア様、私の病気を治して!」と懇願する祈りに変えてしまった。ここルルドは素朴で素直な祈りがふさわしい雰囲気なのだ。
それで、心も体も素っ裸になろうと決心が出来た。沐浴を待っている間の祈りもいつの間にか
「病気治して!!」と「めでたし・・・」の繰り返しになっていた。いよいよ沐浴の順番が
迫ってきた。何故か緊張してくる。祈りも真剣さを増してくる。「次の方4名どうぞ」の声
(フランス語で多分そうだろう)中に入ったら椅子が6個あった。その向こうはカーテンだ。六人全員パンツ一つになって座って神妙にしている。この光景は何か可笑しい。
太ったおじさん達がビール腹の裸で神妙にしているのがユーモラスな感じだ。
カーテンの向こうではザブンザブンと水槽に入っている音がする。
いよいよ、自分の番だ「次の方どうぞ」の声でカーテンの中に入る。パンツを脱いで
真っ裸になりくるりと布がかぶせられ水槽の前に立たされる。水槽の大きさはバスタブを2回り大きくした大理石の水槽だ。ボランティアの人がフランス語でささやく「○×△*+♯:・・・?」と何を言っているのか解らないから「I
cannot speak French! I 'm Japanease」といったら今度は英語で「Play Play」そうかお祈りだ+「天にまします・・・・・」「めでたし・・・」+最後に十字を切ったとたん抱き上げられてザブンと水槽の中に落とされた。
一生懸命「病気を治して下さい」「めでたし・・・・」の繰り返しだ。興奮していて解らなかったが二回水槽に入れられたと思う。一回目立ち上がったとき目の前にマリア様のご像が迫ったのを覚えている。興奮でガタガタ震えて歯の根が合わない。
「はい、これでおしまい」「下着を付けて」いや濡れているのでタオルは?・・ない?・・
濡れたまま下着を付け靴下を履いて(足も拭かないから水虫が心配になった)外に出た。
しかし、外に出たら不思議な事に下着も、靴下も、髪の毛も濡れていないのだ。一瞬でアルコールのように水が蒸発してしまったのだ。「これ、ただの水だよね?」と思ったのだが・・・。
後日、帰国してある会社の技術屋さんにこの話をしたら「それ速乾性の水だね」の一言で何の感慨もない。そっけない返事でがっかりしたのだが、良く考えると速乾性の水ってあるの?
祈り
息子「トラノスケは?」と探したらもう外に出て私を待っていた。
「トラさんどうだった?」彼いわく、沐浴の感想より沐浴から出てきた人がすごかったという。
彼が見ていたのは担架で運ばれて今にも死にそうなぐったりした人だ。こんな人が水槽に
入ったら死んでしまうであろうと思っていたそうだ。ところが、その人が沐浴室の扉から
出てきたら、ピンピンしていてニコニコ顔で元気になって出て来たのを見て大変驚いたそうだ。
「これは、ほんものだよ」と彼は言った。
ルルドの水を飲んだり、ルルドの泉に沐浴して病気が回復したという話は身近でも聞いている
その度に、「ルルドの奇跡」という言葉が気になっていたのだが、ここに来て思ったのだが、
こルルドで起きた事実は奇跡でもなく神の目で見たら当たり前な事で、私達は素直に恩寵を受け入れるところなのだなと思った。訪れた人は皆何らかの恵みを受けて帰る事ができる場所だ。
奇跡とは言わない。ではなんと言うのだろう「神の恩寵」と言うのかも知れない。
そう思ったとたん「病気を治して下さい」という祈りは止めにした。
夕方、自由時間中にグロットの前のベンチに座って、知っている限りの知人に思いを馳せていた。これがルルドでの自分の祈りとしてふさわしいと思ったからである。
夜になると、雨が降ってきた。椎津さんがローソク行列に行きましょうと言うのだが、雨も降っているし少々疲れていたので気が進まなかったが他の二人は行列に参加するという。仕方なく付いて行った。ロザリオ聖堂の上から行列を見ていると雨音と一緒に巡礼者の中から「あめのきさき・・・」の日本語の声が聞こえた。夜で雨が降って薄暗かったので良く顔も見えない。「日本からですか?」と聞いたら渋谷教会の池田さん巡礼ツアーの一行だった。「明日朝7時にグロットで日本語のミサをします。いらっしゃいますか?」「勿論!」
ルルドからパリへ
翌朝、今日はパリに戻る日である。昨夜の雨は嘘のように上がりさわやかな初夏の輝きだ。
早速、7時のミサに間に合うようにグロットに向う。
グロットの前はすでに沢山の人々が集まっている。我々日本人グループ総勢10名がグロットの祭壇を中心に集まりミサが始まった。司式はイエズス会の神父様だ。
私の立った場所はグロットのマリア像の真下でマリア様を頭に戴いている。一人で悦に入っていた。それに、何十年ぶりに侍者をお願いされ(といっても鈴を鳴らすだけ)聖変化の時は思いっきり鈴を鳴らした。グロットの周りに居る各国の巡礼者も不思議な東洋人(日本人)のミサを興味深げに又神妙に参加していた。
ミサを終え急いで修道院に戻る。今日は10時のTGVでパリに戻らねばならない。
朝食を済ませて帰り支度をして玄関先で待っていると迎えのタクシーが来た。
シスターが何やら袋を私たちに呉れた。開けて見たらランチBOXだ。ランチの内容はジャンボン(ハム)のサンドイッチと果物、それとデザート用クッキーやお菓子と心こもったお弁当に我々は感謝一杯だ。帰りの車中は電車の遅れもなんのその和気あいあいで楽しかった。
病気の事
ところで、私の持病はどうなった? 頚椎疾患なので機内で長時間じっとしていると首が痛い、手足がしびれる。それに毎朝起きる時に足が痺れて硬直する毎日を過ごしていた。
起きてしまえば支障がないので日常生活は問題がない。それと、しばしば自分の体調を自己診断するのに首を上下に振る。すると足に電気が走るのでその痛さやしびれの程度で自分の体調を診断している。
沐浴の次の日、即ちルルドを発つ朝、目を覚ますとベットからがばっと立ち上がる事が出来た。
足のしびれや硬直もなかった事にびっくり、念のため首を上下に振ってみたが足に電気は走らない。
「うっ、これは治ったかな?」確証がないから誰にも話さなかった。
パリに到着したその夜変わった兆候があった。その日以降、帰国するまで何回も首を振って体調を確かめた足のしびれは取れていた。パリに戻って数日後、モンマルトルのサクレクール寺院に巡礼したがモンマルトルの長い坂道を歩いても元気よく難なく歩けたし、帰りの機中も往路のような苦しさも無く気持ちよく帰国出来たのだ。
成田から真直ぐ教会に行った。小高神父が「どうだった?」と聞く。私は「若しかしたら治ったかも知れません、しかし神父様、MRIを撮ってからでないと解りません」と答えたが、少し心配になった。それは、この件は黙っていようと思いながら、会う人毎に話してしまったからだ。イエスが、老人の目を治して「この事は黙っていなさい」と命じたが、老人は嬉しさのあまり皆にこの事を知らせてしまったと福音にあるではないか。まったく同じ心境だ。
帰国して、数週間経った。今日は脊椎から頚椎に掛けてMRIを撮る日だ。脊椎は脊椎管狭窄があり、頚椎はOPLLと両者で神経根を圧迫している。いまだにしびれがないので若しかしたら圧迫部が消えているかも知れないとの期待感もあった。MRIを撮り終わって診察室に呼ばれた。
「うーん、相澤さん前のデーターと変わりませんね。次は脊椎を撮ってみましょう。」「やはり直ってないのか」気を取り戻して「先生、脊椎は撮らなくて良いです。多分前と変わらないでしょうから」と答えて病院を出た。
しかし、ほっとした気持ちになっていた。それが本音だ。それから、しばらく経っても相変わらず首を上下に振って体調を確認していた。とある日、ビビビと腰から足先まで電気が走った。
「ああっ、元に戻っちゃった」又、病気と暮らすのかと思いちょっと残念な気がした。と同時に「また、がんばろう。」という気持ちが沸き起こり何故か安心した。そしてマリア様に心から感謝したのだ。
すばらしいルルドのお恵み
ルルド巡礼を供にしたK女史のこと。
彼女は代々の信者の家庭で育ったのだが、その彼女が帰国後、私にこう話してくれた。「私は小さい時から親から厳しく育てられ、日曜日や大祝日は必ず教会に連れて行かれ、Fちゃん、いつも神様がみているから悪い事をしてはいけないよ」と教えられ、大人になってもそれがトラウマでいつも神様は怖い存在でしかなかったのです。教会に行くのもつらい思いがしていました。と言葉を続ける。しかし、「今回のルルド巡礼で思いました。本当に神様はなんと優しく、マリア様を通していつも私を愛して下さっているのだ。本当にマリア様に逢えた様な気がする」と私に話して呉れたのです。
それを聞いた私は「マリア様のお恵みを沢山うけたのですね。」と言って彼女の顔を見た。
そう言う彼女の眼がちょっと潤んでいた。
私はルルドで素晴らしいお恵みをもらった彼女がちょっとうらやましい思いがした。
巡礼記おわり
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