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故ハイメ・シン枢機卿から、うかがったのですが、心に残った、次のような話があります。駅のよこで、果物や、タバコ、キャンディを売る、露天商をしていた人がいました。ある日、三人の若者が、電車に飛び乗ろうと、駅に駆け込んできたのですが、その際に、この露天商が品物を並べていた台を、なぎ倒したまま走り去りました。そのため、果物や、タバコ、キャンディ、その他、売上金の硬貨が、路上に飛び散りました。この露天商は盲人だったので、路上に広がったものを集めるのは大変なことでした。 この様子を電車に乗ってから気がついた、三人の内の最も若い青年が、「悪いことをしてしまった」と後悔して、次の駅から、もどってきて、散らばったものを集める手伝いをしました。「品物を置いてあった台をなぎ倒し、あなたが売っていらっしゃるものが、路上に散らばってしまい、大変、申し訳ないことをしてしまいました。その償いとして、少額ですが、このお金を受け取ってください」と言って、お金を渡しました。眼の見えない露天商の人は、 この青年に「あなたは、イエス・キリストですか」と尋ねたというのです。
先の「巡礼」の後で、私に起こった変化? 巡礼地で、その地にある教会を訪れて、沈黙と祈りの時を過ごすことによって、私の信仰についての史実性と信仰の美を、あらたに、悟ることが出来ました。私たちの信仰には 二番目に、私たちは、自分では どうすることも出来ない 自分の無能さについて感じるべきです。自分では どうすることも出来ないので、神さまのところへ行き、神を心から求めます。 自分では、どうすることも出来ないこと、また自分の罪深いさについて、バルティモアが 心からの叫びをあげたように、「ダビデの子、イエスよ。私を憐れんでください」と 言って イエスに助けを求めれば良いのです。私は、4回、連続で巡礼につきそい、巡礼者にたくさん赦しの秘跡をさずけましたが、先回の、巡礼先のラテラン教会で初めて、自分のために赦しの秘跡を受けることが出来ました。罪とは、私たちが、必要としない荷物です。罪と言う荷物によって、私たちの信仰の視野は、白内障の人のように、狭くなり、信仰の美についても、信仰全体についても、見えなくなります。 三番目に、バルティモアのように、イエスを見たいという大きな望みを、イエスの前で表しましょう。「主よ、見えるようになりたいのです」巡礼というのは、「祈りの旅」です。私たちが必要としている恵みを、主にお願いしましょう。私たちの巡礼の二日目に、アッシジで、聖フランシスコのお墓の前で、短い時間でしたが、心を開き、自分自身を祈りに捧げました。「主よ、あなたは、いつも、私に必要な恵みを下さり、私を裏切られることはありません。今、主にお願いします。ここでミサを捧げたいという、私の心の高まりを聞いてください。あなたにとって不可能なことはありません。あなたは、水を葡萄酒に変えてしまえる方、目の見えない人の視力を一瞬にして取り戻してくださる方、足が立たない人を歩けるようにして下さる方、あなたは、そう望まれたら、何でも、可能になります」このように、祈り終えてから、私は、私のグループの巡礼の方々が待っておられるところへ合流して、そこで、ミサの準備を始めました。ところが、その時、フランシスコ会の修道士の方がやって来られて、「神父さまが グループの人々のために、ミサをあげていただく場所が変わりました。ご案内しますから、私について来てください。」言われたのです。何と、それは、私が祈っていた聖フランシスコお墓のあるチャペルでした! 最後となりましたが、いつも、主についていくという望みを持つことです。巡礼は、いつも、神さまの招きです。私たちは、より大きな使命へとの招き感じることになります。 |