2015イタリア巡礼紀

2015年10月26日(月)−11月3日(火)

Fr.ランディ


故ハイメ・シン枢機卿から、うかがったのですが、心に残った、次のような話があります。駅のよこで、果物や、タバコ、キャンディを売る、露天商をしていた人がいました。ある日、三人の若者が、電車に飛び乗ろうと、駅に駆け込んできたのですが、その際に、この露天商が品物を並べていた台を、なぎ倒したまま走り去りました。そのため、果物や、タバコ、キャンディ、その他、売上金の硬貨が、路上に飛び散りました。この露天商は盲人だったので、路上に広がったものを集めるのは大変なことでした。

この様子を電車に乗ってから気がついた、三人の内の最も若い青年が、「悪いことをしてしまった」と後悔して、次の駅から、もどってきて、散らばったものを集める手伝いをしました。「品物を置いてあった台をなぎ倒し、あなたが売っていらっしゃるものが、路上に散らばってしまい、大変、申し訳ないことをしてしまいました。その償いとして、少額ですが、このお金を受け取ってください」と言って、お金を渡しました。眼の見えない露天商の人は、 この青年に「あなたは、イエス・キリストですか」と尋ねたというのです。


この話は盲人の露天商に起こったことですが、ロマーに巡礼したときの 私自身のことを思い出させてくれます。私はカトリックの司祭なのに、「目が見えていなかった」のです。私は、ローマでのスケジュール、また、教会でのスケジュールの調整に追われていて、巡礼で経験している様々なことが、見えていませんでした。いわば、「精神的な盲目」を経験していました。私と同様に、色々な意味で、「精神的な盲目」の中にある人が、たくさんいます。例えば、「自分のことしか考えられない」という意味で、「精神的な盲目」に落ちこんでいるのです。そうなると、お金に困っている親戚に援助の手を差し伸べたりすることは 出来ません。若い人たちの場合は、自分の家族の問題には、関わりたくないため、心を遣わないのです。そのためか、同年代の人々、友達との交わりに多くの時間を取っているようです。 人は、皆、注意しないと、「自分本位」「無神経」「無関心」によって「精神的な盲目」におちいってしまいます。そのような理由から、私は、「もう一度、見えるようになりたい」と言う、大きな希望をもっています。

先の「巡礼」の後で、私に起こった変化?
先ず、最初に、「巡礼」を定義づけてみましょう。「巡礼」は「精神的な旅」です。私たちは、「ある場所」を「訪れる」だけでなく、そこにおいて、私たちの神様との関係、隣人との関係を再発見するものです。

巡礼地で、その地にある教会を訪れて、沈黙と祈りの時を過ごすことによって、私の信仰についての史実性と信仰の美を、あらたに、悟ることが出来ました。私たちの信仰には
歴史があり、また。私たちの主、イエスご自身によって明らかにされて来た起源のものもあります。
私たちの信仰について知り、それを理解するためには、私たちの傷を癒してくださる方、私たちの旅を、毎日、案内して下さる方として、イエスを知らなければなりません。
先回の巡礼において、私は、皆さんを案内する役割をもっていましたが、本来の意味で、巡礼を導いてくださっていたのは、聖霊であるということに気が付きました。

二番目に、私たちは、自分では どうすることも出来ない 自分の無能さについて感じるべきです。自分では どうすることも出来ないので、神さまのところへ行き、神を心から求めます。 自分では、どうすることも出来ないこと、また自分の罪深いさについて、バルティモアが 心からの叫びをあげたように、「ダビデの子、イエスよ。私を憐れんでください」と 言って イエスに助けを求めれば良いのです。私は、4回、連続で巡礼につきそい、巡礼者にたくさん赦しの秘跡をさずけましたが、先回の、巡礼先のラテラン教会で初めて、自分のために赦しの秘跡を受けることが出来ました。罪とは、私たちが、必要としない荷物です。罪と言う荷物によって、私たちの信仰の視野は、白内障の人のように、狭くなり、信仰の美についても、信仰全体についても、見えなくなります。

三番目に、バルティモアのように、イエスを見たいという大きな望みを、イエスの前で表しましょう。「主よ、見えるようになりたいのです」巡礼というのは、「祈りの旅」です。私たちが必要としている恵みを、主にお願いしましょう。私たちの巡礼の二日目に、アッシジで、聖フランシスコのお墓の前で、短い時間でしたが、心を開き、自分自身を祈りに捧げました。「主よ、あなたは、いつも、私に必要な恵みを下さり、私を裏切られることはありません。今、主にお願いします。ここでミサを捧げたいという、私の心の高まりを聞いてください。あなたにとって不可能なことはありません。あなたは、水を葡萄酒に変えてしまえる方、目の見えない人の視力を一瞬にして取り戻してくださる方、足が立たない人を歩けるようにして下さる方、あなたは、そう望まれたら、何でも、可能になります」このように、祈り終えてから、私は、私のグループの巡礼の方々が待っておられるところへ合流して、そこで、ミサの準備を始めました。ところが、その時、フランシスコ会の修道士の方がやって来られて、「神父さまが グループの人々のために、ミサをあげていただく場所が変わりました。ご案内しますから、私について来てください。」言われたのです。何と、それは、私が祈っていた聖フランシスコお墓のあるチャペルでした!

最後となりましたが、いつも、主についていくという望みを持つことです。巡礼は、いつも、神さまの招きです。私たちは、より大きな使命へとの招き感じることになります。
12月9日からの一年間、「憐みの聖年」を祝おうとしています。私たちは、皆、聖なる者になるように招かれています。私たちが「精神的な盲目」の状態に陥っていたら、神さまに仕える者としての役割を果たすことが出来ません。 「精神的な盲目」の状態を抜け出して初めて、カトリック信者として、キリストの光の輝きを、私たちのうちに実現することが出来ます。シン枢機卿のお話にあった盲目の露天商の人が、若い青年に「あなたはイエス・キリストですか?」と聞いたという話を思い出してください。私たちの周りの人々が、私たちの中にイエス・キリスト」を見つけ出せるでしょうか? 
皆様に、神の豊かな祝福を、お祈りいたします。



 ヨーロッパ・カトリック聖地巡礼センター